2023年11月7日火曜日

ソ連の『幽霊宇宙船伝説』とは一体全体何であったのか❓ーーーー平野泰敏

 一体全体ソ連ロシアの宇宙飛行士秘密事故死とは何であったのだろうか?矢張り全て妄想であったのか?そうUFOと同じ、全てが妄想であったのか?UFOつまり、空飛ぶ円盤が外宇宙から地球を目指して訪れていると言うのは100%妄想である。僕はこう思う。地球の46憶年の歴史上、エイリアンつまり異星人、宇宙人が宇宙船に乗って地球を訪れた事は、たった一度も無いと確信している。UFO空飛ぶ円盤騒動は人類、人間の妄想である。1947年にアメリカで始まった円盤目撃は76年間もほぼ全世界で継続して起きているが、まるで意味が無い。つまり、目撃体験者の『妄想の権化』以外の何でもないからである。UFO体験はカール・ユング博士の言われる『集合的無意識』と、天才的ジャーナリスト故・ジョン・A・キールさんの解明された『UFO地球人説』つまり、地球の46憶年間に生まれ、生きて、そして死んで行ったそれはもしかしたら、9000憶人か?将又(はたまた)9000兆人か?の人間の『妄想の権化』が生み出した、作り上げた、ある意味での『芸術作品』なのだ。この地球上に生まれてそして死んで行った人間『無限の小魚』は恐らく死後、99・99999999%の者は地上若しくは上空100~500㌔に『地上の塵』若しくは『上空の水雲(もずく)』と成り、無限の時の流れに、流れ流されて、ただ虚しく(空しく)漂い続ける。それはもしかしたら数百万年かも知れず、いやいや数億年かも知れない。次に生まれ変わるチャンスは、ほぼゼロに等しく、この『無限の小魚』は無限の時間を持て余している。彼らにはやることが無いのだ。だから地上の生きている人間を、『からかう、騙す、心を弄ぶ』のが唯一の『地上の塵』『上空の水雲』の生甲斐なのだ。ごみや、もずくは地上の時代時代に合わせて、その時代の生きる人間の最も興味、関心の或る話題や流行に合わせて『大芝居を演じる』のが最大・最高の楽しみ、ストレス発散なのだ。地上の生きている奴らを、一泡吹かせてやりたい、それが『地上の塵』『上空の水雲』のお仕事の基本と言うより、他にやることが無いので、外宇宙からのユートピア宇宙人をでっちあげてさ迷える可哀そうな子羊たちを騙すのだ。それがUFOエイリアン宇宙人の理想的宇宙船の正体なのである。UFOなど追及する意味はない。人々が無視すれば何れは消える現象。もっとも別の類似現象が新たに出現するが・・・・・・・。(2023・10・26AM10:50記す。)

     『ソ連の幽霊宇宙船伝説』のそもそものスタートは、1959年12月チェコスロバキア(当時の国名)共産党高官と言われる人物が、非公式会見でソ連が数回の弾道宇宙飛行実験をして失敗して宇宙飛行士が死亡したと言われるのが最初であるらしいと、今日広く伝えられている。この極秘情報は、イタリアのコンチネンタル通信社により繰り返して報道されて、広く欧米に知られるようになったと今日この問題について発信し続けている多くの研究者は考えている様である。コンチネンタル通信社の報道によれば、ソ連の弾道有人宇宙船打ち上げによる死亡した宇宙飛行士は「アレクセイ・ロドフスキー」「セレンティ・シボーリン」「アンドレィ・ミトコフ」「ミリア(マリア)・グロモフ」(女性宇宙飛行士)の4名であると言う。

  同じく1959年、「理論・宇宙旅行の父の一人」であると言われるドイツのヘルマン・オーベルトも著作の中でイタリアのコンチネンタル通信社と同様の話を述べていると言う。但し、オーベルトは、その情報源について一切明かさず理由は不明。ただオーベルトは「1958年初めにカプスチーン・ヤル宇宙基地から準軌道弾道飛行中に、パイロットは死亡した。」と主張した由。アメリカのジェームズ・オバーグや、ロシアのアレクサンドル・ジェレニコフさんはこの4人のソ連宇宙飛行士の秘密の打ち上げは「デマ」「フェイク」であり、ロドフスキーさんや他の人物が「実在の人物」である証拠がない云々と語る。ジェレ二コフさんはロドフスキーと言う人物は、1942年に、つまり戦前に死亡したロシアのパイロットであるともネットで書いていた。2001年(平成13年)のサンケイ新聞(夕刊)に、「ガガーリン以前に秘密実験  3飛行士犠牲に  元開発技師明かす  露航空当局は否定」と言う記事が載り、ソ連時代に宇宙開発技師の一人であったミハイル・ルデンコと言う方が、「1957年に、ロドフスキー」「1958年にシボーリン」「1959年にミトコフ」の3宇宙飛行士が打ち上げられて短時間であったが宇宙空間迄飛んだ。事故で3人ともに死亡した、と「インタフアックス通信」の記者に語ったと言う。アレクサンドル・ジェレニコフさんは長年ミハイル・ルデンコさんに、取材を続けたようだが、ルデンコさんはそれ以上詳しい話を、遂に語らなかったようである。理由は不明。私は、ミハイル・ルデンコさんと言う1950年代にソ連の宇宙開発技師の一人であった人が、実際にロドフスキーさんや他の宇宙飛行士の宇宙船打ち上げ現場の関係者だったのか、或いは技師であってもその「打ち上げ噂話」を聞いた一員であったのかを知りたいと今でも思っているが、ロシア人の研究者である、ジェレニコフさんでさえ一番肝心な話の詳細を聞けないのだから、これはもっと多くの「証言者 」が出てこない限り、『真相』は分らないだろうと、思っている。(2023・10・27記す。)

   何れにしろ、『ソ連の幽霊有人宇宙船伝説』と言うものは間違いなく『東側の世界』(共産主義圏)から出た話がそもそものスタートであり、『西側の世界』(自由主義圏)からの出鱈目報道ーーー所謂『イエロージャーナリズム』つまりソ連の口癖『死亡した宇宙飛行士の様々な噂話は、西側の無責任な報道に過ぎない。』のではない、絶対に無い、と言う事を実証した良いデータ・証拠になる。後でも紹介するが、沢山の男女宇宙飛行士の秘密死亡事故の殆ど全ては、張本人・ソ連自身が垂れ流し、広め続けてきたと言うのが絶対の事実なのである。

   色々調べていくうちに、ソ連は実は実は戦後直ぐ(1945年以降)の頃から、ナチス・ドイツの有人ロケット戦闘機『ナッター』のパクリで、『有人ロケット機』を繰り返し行っていた節がある。高度12キロ迄飛行できたと言う。僕の資料集『君は知っているか?増補改訂版 幽霊宇宙船伝説』134~136頁参照。(2023・10・29記す。)

       「わたしは、地上と3つのチャンネルで相互無線連絡をたもった。衛星船の短波送信機の周波数は、9・019メガサイクルと20・006メガサイクル、超短波送信機の周波数は、143・625メガサイクルであった。わたしは、無線局で働いている同志たちの声を、まるでとなりにいる人の声のようにはっきり聞いた。」『宇宙への道』―ガガーリンの手記  1961・5・21日本共産党中央委員会出版部・刊  188頁。 

   「予告があれば声もきけた―。-わが国で電波がとれたのですか。中田(電波研究所・中田美明)けさ7時からテープレコーダーで」20・005と19・995メガサイクルを連続して受信していた。この周波数は約1年前からずっと昼夜通して記録させているものです。20・006メガサイクルならこれで観測できるはずだが、今までの打ち上げと違ってドプラー効果が見当たらない。このわけは、いままでと通信方式が違うか、電波を断続的に出していて日本でとらえられなかったどちらかどちらかだろうと思う。衛星船1号は日本時間の御前9時に降下、2、3,4号は午後6時から7時でしたがーーーー。-少佐がしゃべったのは聞こえたのでしょうか。中田 放送波をつかったらみんなによく聞かれるのですが、9メガは、はじめてです。9メガは放送用の周波数でこんでいる。少し電波は弱かったが、それにしても前もって予告してくれば、日本の2バンド受信機でもとれたと思う。惜しいですね。世界中の人が歴史的な声を短波できけたでしょうにーーー」朝日新聞1961・4・13(昭和36年)朝刊 

 ガガーリンは本当に打ち上げられていたのでしょうか?それとも世界中巻き込んだ『世界中を巻き込んだ世紀の大ペテン』❓であったのでしょうか❓(2023・11・2記す。) 

   謎のソ連宇宙飛行士訓練生イワン・カチュールの手記。『フセウオー・ハローシェウォ(ご成功を祈る)短いあいさつ。ハッチがバタンとしまった。数秒後、彼は動きだした。はじめはゆっくり、それから物すごいスピードで。3時間後、ひたいを汗ばませて、レーダー像と取り組んでいた科学者たちは、電子計算機からはき出されたデータに、かん声を上げた。モスクワ放送局のバレー音楽は中断され、劇的なアナウンスがひびいてきた。『ソビエトは人工衛星を軌道にのせました。この衛星には人間が乗り組んでいます。ーーーーー。』「これは明日にでも起こり得る」と、ある米国の週刊誌は書いた。「地球だ!」―きっと君はききかえすでしょう。「地球だって?」と。計器の針が目盛盤のうえをビリビリふるえ、衛星船の窓の向こうでは、底なしの暗黒のなかを、たくさんの星座がものすごい速さでとびさってゆきます。私はいま、宇宙をとんでいるのです!これは、いまのところまだ夢にすぎません。しかし、この夢が現実になる日もそう遠くはないでしょう。―ソ連の宇宙飛行訓練生イワン・カチュール君の手記にはこんな感激の文字が 踊っている。』朝日新聞1961・1・7朝刊。        

  『あとにつづく一人、カチュールの手記から”訓練状況”を紹介してみると―「私は特別な服を身につけ、耐圧カプセルのひじかけイスにすわった。壁には複雑な計器類、ラジオ通信用のマイクロホン、ガラス窓などがならんでいる。上昇の命令がでる。カプセルから空気を吐き出すポンプのモーターの音、高度計、上昇速度計の針がどんどんまわる。温度計が下降を示す。カプセルいっぱいに霧がたちこめ、凝縮して白い雲になる。数秒間は何も見えない。ややたって計器や窓の輪郭が、ぼんやり見えてくる。さらに時がたつと、からだが異常に軽くなったことに気づく。空気の抵抗がまったくなくなり、真空のなかに私はおかれる。コップの水は、すぐに沸騰し、蒸発する。宇宙服がなかったら私の血液も沸騰し、からだのなかの液体は蒸発してしまう。服には特殊な装置があって、からだのまわりに”人工大気”といったものをつくり、人体に適した温度と圧力が保たれ、酸素も供給してくれる。こんな状態のなかで、計器を見たり、読んだり書いたり、数学の問題を解いたり、体操をしたりーーーーーの仕事を続ける。その間、からだの表面にとりつけられた何種類もの計器を通じて、医師たちは、私のからだを調べる。さいごに「降下」から「着陸」に移る。』「週刊読売」1961年4月30日号。『3人目だった?ガガーリン』この謎のソ連宇宙飛行士訓練生?イワン・カチュールさんは今日ソ連宇宙飛行士秘密事故死フェイク論者の研究者たちにより、元々宇宙飛行士訓練生ではなかった。彼は有人宇宙船型高高度気球の乗員訓練生であった。と言う。私もその可能性が高いと考えているが、彼のこの『手記』はソ連の雑誌に出たものであり、一体全体どういう考え方でカチュールさんは自らガガーリンの様な地球軌道宇宙船の搭乗する予定もないのに自らの訓練と無関係の記事を書いたのか?理解に苦しむ。イワン・カチュールは1960年の10~12月に『有人宇宙船型・高高度気球上昇実験』の何らかの失敗による事故で亡くなっている可能性もある。(2023・11・2記す。) 

  かつて僕が書いた記事(『増補改訂版・君は知っているか?幽霊宇宙船伝説』2012年12月刊)の中でソ連は『宇宙飛行士の定義』について①ソビエト宇宙飛行士②ソビエト宇宙テストパイロットを別の意味として捉えていた節があると詳しく説明したが、アメリカでもそうであったが、例えばアメリカの有人宇宙船型高高度・気球実験の乗務員の実験を『人類最初の宇宙飛行士』と紹介したアメリカのドキュメンタリー映画を見て知ったが、それと似たような考え方がソ連にも有り、ソ連では『有人宇宙船型高高度・気球実験』の乗務員を『宇宙飛行士』として1959年10月号の雑誌『アガリョーク』の44号にアレクセイ・グラゴフさんなど数名の地上訓練中の写真をガガーリンの飛行の1年半前に公開しており、またウラジミール・イリューシンがガガーリンの宇宙飛行の数日前に打ち上げられたと言う記事を書いたデニス・オグデン氏が、ガガーリンの打ち上げより以前、数ヵ月前かもっと以前かは不明だが、ソ連の新聞で『訓練中の宇宙飛行士』と言う写真入りの記事でウラジミール・イリューシンの事を知り、(ガガーリンの打ち上げが近づいていると言う噂がソ連の彼方此方で話題になっている恐らく1961年4月12日より一週間くらい前か?)『これは世紀の特ダネだ!』と早とちりして『ソ連で最高のテストパイロットで、訓練中の宇宙飛行士と既に報道されている、ウラジミール・イリューシンが数日以内に打ち上げられるに違いないと、思い込み4月12日の数日前に記事にしたと言うのが矢張り真相だと思います。その理由の一つは半年ほど前に愛知県一宮市の友人林君から頂いた古書店で手に入れたと言うガガーリンの本『宇宙への道』(1962年刊 日本共産党中央委員会出版部)の132頁にウラジミール・イリューシンについて一言触れていて(有能なテストパイロットに一人として)、もしこの時期(1961年の後半?)にこの原書がソ連で出たと考えたとすると、もし本当にイリューシンがガガーリンの数日前に打ち上げられて失敗し、中国に不時着し瀕死の重傷を負ったとしたら、ソ連当局は『イリューシンのイの字』もガガーリンの本の中に書く事など許さなかったに違いないからです。又この本『宇宙への道』にはカットされていますが、ガガーリン

の『地球の色は青かった』(1961年8月刊 朝日新聞社)の157頁には謎の宇宙飛行士ピヨトール・ドルゴフさんの事が一言触れられていますが、長年にわたり宇宙飛行に失敗して死亡した沢山のソ連の宇宙飛行士の一人と噂され続けたピヨトール・ドルゴフさんが実はガガーリンの宇宙飛行の一年半後の1962年11月1日に『有人宇宙船型高高度・気球実験』からのスペースジャンプに失敗して死亡していますが、このドルゴフさんについても僕の『増補改訂版』で詳しく紹介していますが、最近インターネットで更にさらに詳しいピヨトール・ドルゴフ宇宙飛行士の事故死の経緯を読みました。ただこの記事は何故か今ネットから消されています。朝日新聞社の本のオリジナル原稿がソ連で公表された時期にはドルゴフさんは健在。内容を改訂した『宇宙への道』のソ連のオリジナル原稿の時期もドルゴフさんは健在なので、これは多分意識的にドルゴフさんの事をカットしたのではなく、改訂版の原稿整理の都合上のことで、意味は有りません。僕は自分の『増補改訂版』の中で『ピヨトール・ドルゴフさんあなたもソ連邦英雄だ!』と書きましたが、実はドルゴフさんは既にソ連邦英雄になっておられました。

 話が大分それましたが、ソ連ではガガーリンの様な『軌道飛行宇宙船の宇宙飛行士』やウラジミール・イリューシンの様なテストパイロット(とは言っても、普通のジェット機や、それ以上のソ連では沢山の種類が有ったらしい、『宇宙ロケット飛行機【宇宙ロケット機】の宇宙飛行士』やピヨトール・ドルゴフの様な『有人宇宙船型高高度・気球実験の宇宙飛行士』も全て『広い意味での宇宙飛行士』と考えていた節が有ります。これらを混同してソ連の新聞や雑誌などが『訓練中の宇宙飛行士』と報道していたことが多々あり、例えば僕が以前ソ連の或る人名辞典をインターネットで検索した時にウラジミール・イリューシンの事が『宇宙飛行士』と記されているのを見たことがあります。デニス・オグデンさんもソ連の新聞で『訓練中の宇宙飛行士』の顔写真でウラジミール・イリューシンを確かに見ているのです。僕が近年考えていたのはソ連は戦後の1950年代から1960年代の後半迄?或いは1970年代迄、様々な『有翼宇宙ロケット飛行機(宇宙ロケット機)』つまり一言で言えばアメリカのスペースシャトルのルーツ見たいな『広い意味での宇宙船』を無数に打ち上げており、それはロケットに取り付けられたものから、大型の航空機の上側或いは下側に取り付けられたものとか、色々な方法で『宇宙飛行士』(ソビエト宇宙テストパイロット)が沢山存在し、多くの事故を起こし、その犠牲者はもしかしたら戦後(1945年~2000年代?)200名以上!何と、なんと、ナント、何と!ある可能性が極めて高いのではないかとシリアスに考え思っているので御座います。(2023・11・7記す。)

     ソ連は戦後(1945年)様々な『有翼宇宙ロケット飛行機(宇宙ロケット機)』を開発。当然有人機。それは戦後直ぐにナチスドイツの有人ロケット『ナッター』のパクリから始まりどんなに遅くても1948年の昭和23年には『パクリ版・ナッター有人宇宙ロケット機』(広い意味での有人宇宙船)で高度は分らないが「俺はロケットに乗って飛んだ!」と他界する直前に傍にいた家族か、友人かは不明だが告白した、ソ連ではかなり有名なパイロットがいたと、アレクサンダー・ジェレニヤーフさんは書いている。そのソ連ではかなり有名な飛行士の名前もインターネットに出ていたが、今ではその記事を検索できない。何故か消えてしまった。タイトルは、確か『イギリス人は数十人のソ連宇宙飛行士が死んでいると、信じている。』と言う、かなり長い記事であった。僕が思うのに、本当はもっと以前、つまり1945年末頃?から1948年頃まで、『パクリ版・ナッター有人ロケット機』で月一回位のペースで、人間を成層圏目指して打ち上げて、この3年間で30数回か?の打ち上げで殆ど失敗して、30人近い『広い意味での宇宙飛行士』が死んでいる可能性は極めて高い!と確信している。自分がロケットに乗った!と告白した彼は奇跡的に生き残ったそれこそ『ソ連邦英雄』であろう。恐らくソ連は戦後の3年間だけで30人近い宇宙飛行士を殺したのだろう。(2023・11・9記す。) 

     

  ソ連はアメリカの様に『弾道飛行有人宇宙船』を打ち上げずに最初から『軌道飛行有人宇宙船』(ガガーリンやチトフの搭乗したボストーク宇宙船)でなければ宇宙飛行の意味が無いとかねがね言っているがこれは嘘万パチで1957,1958,1959年の3回『ボスマーカ』と言う弾道宇宙船を打ち上げ、何れも失敗して3人の宇宙飛行士(アレクセイ・ロドフスキー、セレンティ・シボーリン、アンドレィ・ミトコフ)を殺したと、60年間以上噂され続けている。インターネットで検索すると、ソ連の様々な有人宇宙船の絵図が出てくるが、その無数の絵図の中にボスマーカ有人弾道飛行宇宙船の詳細な設計図面が載っている。私の旧著『幽霊宇宙船伝説』1989年刊 22世紀社)の162~163頁に紹介した簡単な絵図ではなく、本格的な図面である。又それより何年か前にソ連は『BP 190』と言う二人乗りの弾道飛行宇宙船も開発していたようである。これは恐らく『パクリ版ナッター有人ロケット機』計画(1945~1948年?)が終了した後の1950年位には開発されて1952~1954年頃?には数回宇宙飛行士を乗せて(二人)打ち上げられた可能性がある。勿論失敗であったろう。もしかしたら1952、1953,1954年の3回打ち上げられたのかも知れない。『BP 190』がお話にならずに、新たな有人宇宙船『ボスマーカ』の開発に掛かり、3年後の1957年にアレクセイ・ロドフスキー船長を乗せた『ボスマーカ1号』が打ち上げられたのではないか?ロドフスキー船長は28分間に亘って地上の管制局と交信を続けたと言われる。彼は地球に戻らなかった。太陽を巡る人口惑星軌道に入ってしまい、永久に太陽を回り続ける。話は別だが、ソ連は戦後『有翼有人宇宙船』を開発していたが、様々な問題があり、中止、ボストーク型の宇宙船の開発に乗り出したと、『ソ連宇宙開発史』の著者は、ソ連宇宙開発関係者の話を鵜吞みにして書いているがこれも又嘘万パチであり、ソ連は戦後の1945年以降様々な『有翼宇宙ロケット機』(有人宇宙船)を開発してきた。私が知ったものだけでも ①『ブラン計画』(1952~1957年) ②『VKA計画』(1957~1960年) ③『RKA計画』(1959~19❓年) ④『スペラーリ50ー50計画』(1962~1969年) ⑤『MKS計画』(1970~1989年) ⑥『クリッパー計画』(2000年代)と、6種類も有り、例えば④の『スペラーリ有人宇宙ロケット機だけでも少なくても6種類くらいの派生型がある様だ。いや実際はもっと多いのかも知れない。例えば別の話だが、ソユーズ有人宇宙船も実に様々な『派生型』が有り、インターネットには軍事用に開発されたソユーズ宇宙船の映像(実際に制作された工場内の実物の宇宙船が置かれているもの。)等1950年代から1970年代の後半頃まで?ソ連は豊かな資金を宇宙開発に注ぎ込み、何と、なんと、ナント国家予算の10%を宇宙開発に使っていたらしいくて、アメリカなど問題外?に様々な『有人宇宙船開発』に明け暮れていたようだが、どれもこれもまともなものはなく、次々に有人宇宙船を打ち上げても失敗の連続で、無数の宇宙飛行士を殺したらしい。一般に公表されているソ連の有人宇宙開発史は、あくまでも表向きの差しさわりのない話のみで、実際は信じられない位の出鱈目でいい加減の正に日本流で言えば『親方日の丸、怠け者、無責任軍団』の科学者、技術者、職人集団の賜物が、ソ連の宇宙開発史の全てであろう。戦後のソ連の『有翼宇宙ロケット機』の打ち上げ事故による宇宙飛行士の死亡事故は無数であり、特に①の『ブラン計画』(1952~1957年)は恐らく月に一回の打ち上げで?5年間で60回位宇宙飛行士を乗せて打ち上げてその多くが失敗であり、数十人の『広い意味での宇宙飛行士』を殺してしまった可能性が極めて高い。ロシアの全く普通のおばさんが偶々出会った日本人の観光客の或る作家に『ロシアにはね、ガガーリンのお墓が一杯有るのよ、ガガーリンより前に飛んだ人たちのね。』と言う話には隠せない真実が有るのである。(2023・11・9記す。)

  戦後(1945年、そう昭和20年から2000年位迄)の55年間で、恐らく200人以上の『広い意味での宇宙飛行士』をソ連ロシア人政府は殺したと思っている。僕は10数年前に纏めた『増補改訂版・君は知っているか?  幽霊宇宙船伝説』(自家版、400字詰め原稿用紙650枚位か?)を出したころは秘密事故で死亡したソ連の宇宙飛行士は50人以上か?と書いたが、実はそんなもんではない。その4倍以上の200人位の男女宇宙飛行士が闇から闇に消されている可能性が極めて高いのだ。例えば潜水艦の秘密事故で、ソ連は戦後の1950年代~1960年代の10年間で事故の回数100回以上、死亡した潜水艦の乗組員は何と、なんと、ナント、何と1万人以上!と、信じられないくらい起きていたようであり1970年代にスエーデンの研究者が分厚い報告書を出して欧米ではそこそこ話題になったと聞いている。これがソ連ロシアの実態だ!(2023・11・9記す。)  

     ソ連は1951年から旧ナチスドイツのV2号ロケットのパクリから始まって様々なロケットを開発して犬をはじめ沢山の動物を弾道ロケットに乗せて飛ばす実験を繰り返して行っており、『動物だけで、人間は弾道ロケットに乗せる事は無かった。』と言う、ソ連の公式発表は余りにも見え透いた大嘘で有り、先にドイツのヘルマン・オーベルトがソ連の宇宙飛行士の秘密事故の『情報源』を一切明かさなかったと、書いたが先日或るインターネットの記事で、オーベルトは『アメリカの情報機関、(つまりCIAとか、F

BI)』辺りからの情報を何らかの人を通じて得たらしいと、書かれていて、僕が思うのに矢張り、アメリカ当局は、あの1950年代であってもある程度の、つまり100%ではないとしても、ソ連の宇宙飛行士の秘密事故死の情報を掴んでいたと考えている。スパイとして有名であったオレグ・ペンコフスキーも『ガガーリンの前にも数回のよく訓練された宇宙飛行士の打ち上げが有った。何れも失敗して死んだ。打ち上げられても二度と帰ってこなかったか、発射台でロケットが爆発してしまったかのどちらかで有った。』と書いている。矢張、1957年のアレクセイ・ロドフスキー、1958年のセレンティ・シボーリン、1959年のアンドレィ・ミトコフさんたちは実在して、ホントに打ち上げられて死んだのだ!特に1958年のセレンティ・シボーリンさんの打ち上げは100%事実だと確信する。彼の打ち上げについては、今東京の守屋さんにわたしてある小論に詳しく書いた。(2023・11・11記す。)

    インターネットの中に、二つの全く同じ内容の記事が出ています。一つは『宇宙飛行士の本の資料を集めていたマイケル・スキャット研究員が、情報公開法に基づく「1960年から1975年の(ソ連の)宇宙飛行士の事故」についてCIAに要請したところ、非常に興味深い回答が得られました。そのような文書に対する彼の要求は拒否されましたが、補償として彼は彼の要求を満たす文書のリストを提供されました。1965年4月6日(ボスホード2号の飛行直後)に1件、1967年のソユーズ1号の災害時に3件、同じ年にさらに2件、1973年から1975年の間にさらに3件の報告がありました。アポローソユーズ飛行。そのような文書の存在は、さらにいくつかの事件の可能性を示唆していますが、文書が完全に機密解除されるまで、それ以上の推測は役立ちません。』もうひとつは、恐らくロシアの研究者の本だと思いますが、確か『イギリス人は数十人のソ連の宇宙飛行士が死んでいると信じている。』と言うかなり長編の記事ですが、今ネットから消されていて確かめれません。その記事に中に、或るロシア人の婦人がアメリカのNASAを訪問した際に『私の夫は1967年に宇宙飛行する訓練をしていたが事故で死亡した。』と、傍にいたアメリカ人に語った由ですが、その話を多分ジェームズ・オバーグさんは後に『私はもうその話を信じてはいない。』と、周りの関係者に語ったと言う様なことが出ていました。この長編の記事には、ピヨトール・ドルゴフ宇宙飛行士(有人宇宙船型・高高度気球の乗組員と言う意味での、広義での宇宙飛行士の一人)の『ボルガ号』と言う有人宇宙船型・高高度気球からの『スペースダイビング』の失敗による死亡事故のかなり詳しい経緯が紹介されています。そして尚ピヨトール・ドルゴフ宇宙飛行士は事故死の後に『ソ連邦英雄』になっておりました。(2023年11月24日記す。)

  マイケル・スキャットではなく『マイケル・キャスット』又は『マイケル・カズット』と言う方の本『レッドムーン』が正しいらしい。(2023年11月24日記す。)

   ソ連は戦後(1945~1946年位?)からナチスドイツの有人ロケット機『ナッター』のパクリから始まって、(ちなみにナチスドイツは敗戦直前に一度だけテストパイロットを乗せたナッター有人ロケット機を打ち上げたが、パイロットが失神して地上に激突死亡。2回目を打ち上げることなくナチスドイツは崩壊。最初の打ち上げが失敗しても次は自分がロケットに乗って飛びたいと言うテストパイロットが続出していたと、インターネットには出ている。)様々な『有人ロケット機』を打ち上げた様であり、『自分は1948年(昭和23年)にロケットに乗って飛んだ!』と、他界する直前に?親族か友人に語ったと言う、セルゲイ・ニコラエビッチ・アノーキンと言うソ連ではかなり有名なテストパイロットがいたと或るインターネットの記事に出ている。彼は『パクリ版・ナッター有人ロケット機』で打ち上げられて、成層圏(地上10~50㎞)迄飛んだのか?或いはもっと低い上空5~7㎞位迄上昇したのかは不明。しかしアノーキンさんは間違いなく世界最初の『広義での宇宙飛行士』である可能性が極めて高いと思う。1948年と言えば、ガガーリンの世界最初の?『軌道飛行有人宇宙船』の打ち上げ(1961年)より何と!なんと!ナント!何と!13年も早い!のだ。

ソ連は戦後ナッター有人ロケット機に引き続き、『BPー190』と言う『二人乗りの弾道宇宙船』を恐らく1950年には開発させて、多分2年後の1952年には打ち上げた可能性が高い。ソ連宇宙飛行士秘密事故死の噂を「フェイクだ‼』と主張するアメリカのジェームズ・オバーグやその他の人達は、「噂の宇宙飛行士がホントであったならば、彼らはテストパイロットであった筈であり、噂の宇宙飛行士の名前が、ソ連の航空学校等を卒業している『記録』に出ている筈なのに一人も出ていない。1957年に弾道宇宙船で打ち上げられたアレクセイ・ロドフスキーと言う人物は確かにソ連のパイロットの記録に出ているが、1942年(つまり戦前)に死亡している。』と、言うのだが実はソ連は戦後の様々なタイプの有人宇宙ロケット機を打ち上げて来たらしいが、先に述べたセルゲイ・ニコラエビッチ・アノーキンさんの様なテストパイロットは希少的であり、大半と言うより、殆ど全ての有人打ち上げが、実は『刑務所に収監されている囚人』とは言ってもソ連の刑務所に入れられている犯罪者は、今でもそうであろうが99・9%『密告恐怖政治の犠牲者』の何の罪も無い人々で有る可能性が極めて高いのだ。つまりソビエト政府は囚人をモルモットとして戦後(恐らく1952年~1970年代迄)無数のそれはもしかしたら200人位の人々を『様々なタイプの有人宇宙ロケット機』に無理やりに乗せて花火を打ち上げるかのような感じで昇天させ続けて来た可能性が強い。戦後の1952年位から2000年代に掛けて宇宙に向かって飛ばされて行ていった200人❓の人達の中180人位が何の罪も無い『囚人』であったのだろう。残りの20人位はテストパイロットであったのかも知れない。話は別だがソ連は戦後の1950~1960年の10年間で100回以上の潜水艦の事故を起こしており、この沢山の事故で1万人以上の潜水艦乗組員が海中に沈んでいると、1970年代の初めにスエーデンの研究者が分厚い研究報告書を出している。欧米では話題になった様だが日本では全く知られていない。この話は当時日本の週刊誌に小さく報道された。ソビエトと言う国はそういう体質の国なのだ。当然(宇宙飛行士がソユーズ宇宙船(1号の一人、11号の3人の計4名)の死亡事故死か無かった等と言う、話は有りえないのだ。

ちなみにソ連の戦後の有人宇宙ロケット機は判明したものだけでも①『ブラン計画』(1952~1957年)②『VKA計画』(1957~1960年)③『RKA計画』(1959~❓年)④『スペラーリ50ー50計画』(1962~1969年)⑤『MKS計画』(1970~1989年)⑥『クリッパー計画』(2000年代)と6種類も有り、又これらとは別の⑥『fay3』と言う三角形型の有人ロケット機が飛行している(地上30㎞迄飛行できたと言う。)写真も見ている。特に1952~1957年のブラン宇宙ロケット機は正にアメリカのスペースシャトルのルーツ見たいなものであり、インターネットにはその打ち上げシーンが沢山出ている。ブランのコックピットがハッキリと見られる映像で恐らくこの5年間(1952~1957)毎月一回、計60回位囚人を無理やり乗せて宇宙に向かって打ち上げて様々な人体実験を行っていたのであろう。彼らは宇宙飛行士では無い。単なる実験動物だ。ソ連の宇宙飛行士が戦後200人も秘密に打ち上げられて死んでいる、等ととても信じられないと言う人たちに伝えたい。ソ連は1991年に崩壊するまでの73年間の共産党独裁恐怖政治の歴史において1億5千万人の自国民を地の果てシベリアに送り込み(100%無実の罪で)3人に一人、つまり5000万人の同胞をマイナス30~60度の極寒の地で飢えと寒さと重労働で死亡させた。食べるものも無く、着るものも無く、まるで日本の70年前の豚小屋の様な小屋に住ませて無数の人が虫けらの如く死んで行った。生き残った一億人のソ連人な完全黙秘した。一言でも余計なことを喋ったら再びシベリア行きである事を全員知っているからである。こういう無慈悲で残忍、残酷な体制の地球の46憶年の歴史上他に前例の無い『人非人(人でなし)』の国家がマルクスレーニン主義なのだ。カール・ユング博士はソ連が何故この様な天文学的な数の国民をシベリア送りしたのか、その理由は『口減らし』であったと語る。73年間で5000万人の国民を残虐して平気の平左のソビエト政府から見たら、戦後の50数年間で200人位の『宇宙飛行した人間』をゴミの如く掃き捨てるのに心は痛む筈は無いのだ。(2023年12月1日記す。)

22024.8.24

奇跡は起こらず、😔💡ひらめきは 妄想、誇大妄想の黒煙となり、空 高く舞い上がり、 悪い風に流されて、 何処かに 消え去りました。 全ては終了しました。 正にまさに、THE END 恙無く、僕のどす黒い、悪😈の誇大妄想 は崖っぷちに立ち、人生の最終章を 迎えます。 ブログは、...